悟りを啓いたところで、それがどうしたんですか?って感じの件

昨日は特に何もせずに寝た
今朝は呼吸法をして瞑想
今日、フルフィルメント瞑想のこの前のゼロな感じの先を覗いてみたい気もしてやってみようと思ったけど、やっぱりやめた
ゆるーいスタートになるのもなぁと思って

ほんで、ここ最近思うこと、、、

僕は阿部敏郎さんが好きです
リスペクトしています
雲黒斎さんについては、彼の話を聞くと睡魔が襲うので、そこそこ好き
時々書いてますが、僕は阿雲の呼吸という阿部敏郎さんと雲黒斎さんのコラボ講演会をきっかけに、それから阿部敏郎さんのいまここ塾に1年間通った
その理由は悟りに興味があったというのはもちろんですが、話が笑い転げるほど面白かったってのが大きい
だけど、1年通って行くのをやめた
理由は、飽きたからではなく、行ったことで自分が特別意識を持ち始めていることと、いくら話を聞いてもわかった気分になるだけで、いつまでもわからないと気付いたから

具体的にどういうことかというと、毎回参加することで、「俺は誰よりも真理を追求してるんだ」って気分が芽生え始め、それに、阿部敏郎さんの話を1年も聞けば、さすがに阿部敏郎さんの言葉は覚えるわけで、悟りとはどういうものかと語ることができるようになった
悟りをわかってるわけではないのにね
ほんで、友人と話をしてたときに、「道を歩いていたら急に何かに気づいて、それをきっかけに不安が吹っ飛んだ」って話をしたら、相手も競うように「そんなことはとうの前に気づいてるよ、不安は無くなっても、記憶はあるから不安の記憶が呼び覚まされて不安なような気分になることはあるけどね」みたいな、わかったようなことを言ってるのを聞いて、その人が悟ったかどうかはわからないんだけど、なんだか恥ずかしくなってしまって、自分も同じかもしれないと思った
それをきっかけに、自分が特別意識を持ってることに気づいて、行くのをやめた
阿部敏郎さんは、「最近、彼来なくなったなぁ」ぐらいに思ってくれてるのかなぁ

特別意識って、危険だなぁって思う
他人と比較したその目線で俺はすごいんだ、私は特別なんだって思うんだもんね
「私は悟りを啓いた」とか、言ってるヤツは気をつけてね、みなさん
そういう人は何かしようとしてると思うよ
そういうことをいうのって、その特別意識が極みみたいなものだと思うから

結局、悟りというのは、無思考な世界わけで、悟りを啓いた状態と啓いてない状態があると思ってる時点で、それは思考の世界に浸っているということ
逆に悟りを啓いてしまったら、悟りを啓いたも啓いてないもない状態になるから、悟りを啓いたって感覚さえ存在しない
だから、悟りを啓いたと認識できるのは思考がそう表現しているだけ

僕も特別体験はあるよ
おかげで、自分という乗り物のハンドルをつかんで生きているという実感があるから安心がある
乗りこなせているかどうかは別としてね
だけどね、それがあったって、肉体と共に生きているわけで、いろんな心配はあるよ
人と違うところがあるとすれば、心配はあっても、自分を奪われることがないということぐらいで、そういう意味で、究極的には心配や不安は無い
だけど、四六時中、喜びで満ちあふれてなんか生きていない
心の平和が自分の中にあるという感覚を持って生きているだけで、現象面ではあたふたしてるし、事がある毎に先生に相談メールを送ってるよ
先生に相談するときの感覚は、PS3などのゲームをしていて、攻略に手詰まり感を感じたときに、その攻略法を調べて、攻略を進めたりするんだけど、それに似た感じ
どっかで大丈夫とは思いつつも、どう対応したら良いのでしょうか?って感じで、心が呑込まれてしまって、あぁやべーみたいな感じでは無い

呼吸法をはじめ、スピリチュアルなことに携わっていると、一般の人が知らないことを知れたり、気づいたりする
だけど、それって落とし穴でもあるから気をつけないとね
やっぱり大事なのは目の前の現実
その中で、どう生きて、一瞬の中に幸せを見出すかだと思う
一瞬の幸せを見出すことは、スピリチュアルに携わったり、悟りの境地なんか無くったって感じられる

ってことで、また今日も一日、仕事に追われながら、自分を見失わないように生きていきます
いつか、今と比べて労働時間が半分で給料が倍になることを夢見ながら・・・

コメント

  1. お疲れ様ですね、「ヨーガ」の語源は「馬にくびきをかける」意を持つサンスクリット語でそれと
    同じ様に「自己の心身にくびきをかけてコントロールする」という意味です。武道を含め全ての修行は、何かと思う通りにならない「自己の心身の
    制御」に始まります。「悟り」システムにしても
    沢山の「小さい悟り」を重ね、「大きな悟り」に
    つなげて行くというもので、「小さい悟り=気付き」と言えます。だから結構ポピュラーでもあるのです。でもそれらの「道」は「無極」=極まる事は無い事で、「一生、修行じゃん!」って事です。この場をお借りして少し宣伝を、今日より
    「瞑想」の正体についてのブログを数回に分けて
    連載しますので、興味のある方は読んで下さいませ、よろしくお願いします「本当に使える「氣」
    の正体」http://ameblo.jp/lin2525/
    夕方までにはアップしますので、
    「D造」君、ありがとう!

    • 木村師匠

      お疲れ様です!!
      ヨーガの語源はそういうことだったんですね
      ってことは、僕のハンドルを持つという感覚は正しかったわけですね
      武道、茶道など、道がつくものは結局、全部、自分の制御がテーマですよね
      小さな悟りが気付き、一生修行じゃん!はホントにその通りですね
      僕はこのブログのおかげで、たくさんの小さな気付きにあえて気づく場になってます
      ベースにあるのはもちろん行ですが、良い感じです
      そう、無極なんですよね
      がんばります!!

  2. フルフィルメント瞑想を検索して、このブログに来ました。

    確かに気づきにも段階がありますよね。

    私も段階をへて体感し、ある時、全ては宇宙意識の偏在であったと気づきました。

    体感すると言葉など、どうでもいいと思いますが、
    その体感を表現するときに、先人の言葉はとても役立つこともわかりました。

    ブッダ、阿部さん、キリスト、エックハルトトール、OSHO、ラマナ・マハリシはみな同じことを言っていたんだってはっきりわかりました。

    身体を持ってこの世界に存在する以上、言葉(思考)が必要ですもんね。

    全ては神のお戯れですね♪

    今日も素敵な一日を♪

    • Yaccoさん

      はじめまして、D造です
      コメントありがとうございます!
      フルフィルメント瞑想の検索からいらしたんですね

      気付きにも段階というのか、幅が拡がるっていうんですかね
      気付きの幅が拡がったことで、今まで認識できなかったことが認識できるようになって、それが段階があがったような気になるんじゃないかと最近感じてます
      結局、時代とか、国とか、そのときそのときに現れた人物が、同じ事に気づいて言ってるんでしょうね
      僕も偉そうに、自分が初めて気づいたかのように、ブログに書いてますが、どっかの誰かが言ったことの受け売りだと思いますね

      全ては神のお戯れですね!!
      そして、我は神なりですね

      これからよろしくお願いします

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