「できた」と勘違いするより、「できたかどうかわからない」と迷った方が良い件

 

D造
D造

D造です。

昨日、カウンターしかない居酒屋に行きましたら、若い女性がお店の人に恋愛相談をしていました。

聞くつもりもなかったのですが、念仏のような会話が聞こえてきまして、「そんな時代もあーったねと、、、」と頭の中で中島みゆきの時代を歌い、おっさんになったなぁとしみじみ思った次第でした。

 

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ガバイセッションをやっていくなかで、例えば、感覚脳を使う練習をしたり、また呼吸法を教えても「できたかどうかわからない」という人がいます。

感覚脳が使えているかは、感覚的なものだからわからなかったとしても、手順通りやってもらえば良いだけの呼吸法を、手順通りにやれていたとしても、「できたかどうかわからない」という人もいます。

で、実は「できたかどうかわからない」というのは、正しい反応なんですね。

「できた」とするなら、何かしらの基準があって「できた」と言えるわけで、その基準がないと「できた」かどうかさえわからないんですね。

ですので、教わってすぐに「できたかどうかわからない」と思うのは正しいんですね。

なのに、「よし、できた!(わかった!)」と反応する人は、餓鬼型人間の可能性が高いです。

 

ただ、「できないことはダメなこと」みたいな観念を持っているために、「できた」という実感を追い求めてしまい、その実感が得られずに、「できてなかったらどうしよう」的な不安が起こり、「できたかどうかわからない」と思ってしまっている場合もあります。

そういう人はなんだかよくわからない「できた感」が欲しいんですよね。

この場合、「こうなったらできたと思って良いよ」と「できた」の基準を伝えて、その基準をはっきり確認したとしても、そういう観念がある人は、次の瞬間に、その基準のことはすっかり忘れて、「できた」という実感を追い求めてしまって、「できたかどうかわからない」という不安に襲われます。

この場合、上記の基準の問題ではなく、観念の問題になります。

 

ラーメンはどっかで食べられる味なんだけど、乗っかってるエビのとうがらしがうまい!!

 

例えば、自転車に乗れる人が、歩いているときなど、自転車に乗っていないときに、自転車に乗れることを実感しようとしても実感できません。

自転車に乗れる実感というのは、自転車に乗っているときに、「私は自転車に乗れている」ことを確認をする以外に無いわけです。

で、自転車に乗れることが当たり前かのように思っている人がいますが、それは自転車に何度も乗って、自転車に乗れるという事実を何度も確認しているから、自転車に乗れることが当たり前のように錯覚しているだけなんですね。

でも、厳密に言えば、「私は自転車に乗れる可能性が極めて高い」というだけで、自転車に乗れるかどうかの確約みたいなものはありません。

 

また、「できた」も基準が変わると、それだけで「できない」にもなります。

そして、あなたが「できた」と思っていることの基準も、絶対的な基準ではなく、「こうなればとりあえずできたと思って良いよ」ぐらいの曖昧な基準であることが多いです。

例えば、「自転車に乗れる」という基準が、「街中を自由に乗り回せる」ということであれば、街中を乗り回せれば「自転車に乗れる」なんですね。

ですが、下記の動画のようにアクロバットな乗り方をできることが基準とするなら、街中で自転車に乗れているだけでは、「自転車には乗れていない」となります。

そんなわけですから、「できたかどうか」にこだわるのは意味がありません。

 

FULL BROADCAST: BMX Street Final | X Games Minneapolis 2017

 

ちなみに、会社で上司に仕事の指示をされ、自分ではやったつもりなのに、「できていない」と言われることがあります。

これはどういう状態が仕事を終えたと言えるのか確認しないまま引き受け、上司の自分の基準が違っていたということですね。

ですから、何をもって「仕事が完了した」と言えるのか、確認するクセが必要なんですが、その上司が仕事の完成形をわかっていなかったりするので、まぁ何ともですね。

 

そんなわけで、何かをしようとするときに「できたかどうかわからない」というのは正しい反応と言えます。

ですので、できたかどうかわからなくて不安を感じる人は、何をもって「できた」とするのか、その基準、定義を確認するようにすると良いですよ~!

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